PLAY VIDEO いっしょに!おえかきおねいさん パフォーマンス|2014 平本 瑞季 田中 真琴, 箱田 果歩, 佐藤 萌子, 清原 惟, 野中 美穂, 若林 あすみ, 西 夏央, 須藤 洸, 藤原 由智, 川田 歩, 大森 緩子, 正村 暢崇 武蔵野美術大学 CAMPUS GENIUS BRONZE 作品Webサイトhttp://mimimizuki1009.tumblr.com/ 作家についてのお問合せ 審査員コメント 作者は小さい頃に教育テレビで見た、「うたのおねえさん」に憧れ、作品の中で自らその「おねえさん」に扮して登場する。そこで作者は、そのまま「うたのおねえさん」になるのではなく、「おえかきのおねえさん」になり、表記も「おねえ”さん」ではなく、「おねい”さん」とし、意図的にズレを設定している。このズレは、憧れていた「うたのおねえさん」になりきれず、作者らの「いつもの日常」がだらしなく浸食してきてしまう、理想/フィクションと現実のズレのことでもある。「おえかきおねいさん」の役割を果たそうとする作者の「おねいさん」と、それと裏腹に低いテンションで自由気ままにふるまう「タナカ」というキャラクターもまた、このズレを作るために要請されたキャラクターなのだろう。この二人のやりとりは、おそらく細かい台本が無く、アドリブ的、事故的でスリリングだし、だんだんと絵を描く事がただの作業になり、「おねいさん」と「タナカ」が無言で手を動かすようになっていっても、ただ映像として映っているだけで、何かの意味や結論に帰着させない感じがいい。また、馬の絵を描くシーンでは、映像の撮影と同時に写真の撮影を行ったようで、そのシャッター音が聴こえてきたり、「タナカ」が馬の尻尾を紙の真ん中に描きだしたところで撮影しているカメラマンのツッコミが聴こえる。こうした画面外のフィクションではない出来事が入り込んでくることで、画面内でのフィクションにならなさ=グダグダ感がより強調されていく。そうしたズレを内包、あるいはその侵入を許容しつつも、そのズレに対して悲観的になるわけでもなく、ただただ流れ込んでくるその日常のグダグダ感を受け入れて、安易な物語に落とし込まない姿勢が徹底しているのだと思う。 谷口 暁彦 作家 部屋鳴りがする。画面が暗い。共演者のテンションが低い。話が噛み合ってない。おねいさんの足がちょっと太い。ブラジャーのヒモが透けて見える。胸の谷間も見える。スタッフの声が聴こえる。スティルの撮影音が聞こえる。やらしい。描いている絵が見えづらい。うたのコーナーの始まりが唐突。うたのコーナーのフレームレートが低い。実在企業の商品が出てる。おねいさんがおねいさんであることを忘れる時がある。とにかく尺が長い。この作品を構成する特徴的な要素。これらはすべて、テレビで放送されている子ども向けの教育番組が、夾雑物として排除してきたものでもある。「おねいさん」と「おねえさん」との間の断絶はこの夾雑物の量にある。作者はこの作品おいて、こうした要素を排除できなかったのか、排除したくなかったのかはよく分からない。ただ、ここを起点に、子ども向けの教育番組が、子どもが持つある種のノイジーさに比べていかにクリーンな存在か。そして、そのクリーンさはどこから要請されるのか。誰がつくっているのか。そうしたことを考えるきっかけにはなるだろう。おねいさんの中の人もいずれ社会に出ることになる。そのとき、「おねいさん」からもさらに離れてしまうのか、はたまたあのクリーンな「おねえさん」に近づくのか。またどこかで再会したい。 渡邉 朋也 作家 2023 アート&ニューメディア部門 映像&アニメーション部門 ゲーム&インタラクション部門 パートナー賞 2022 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2021 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2020 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2019 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2018 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2017 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2016 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2015 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2014 受賞作品
作者は小さい頃に教育テレビで見た、「うたのおねえさん」に憧れ、作品の中で自らその「おねえさん」に扮して登場する。そこで作者は、そのまま「うたのおねえさん」になるのではなく、「おえかきのおねえさん」になり、表記も「おねえ”さん」ではなく、「おねい”さん」とし、意図的にズレを設定している。このズレは、憧れていた「うたのおねえさん」になりきれず、作者らの「いつもの日常」がだらしなく浸食してきてしまう、理想/フィクションと現実のズレのことでもある。「おえかきおねいさん」の役割を果たそうとする作者の「おねいさん」と、それと裏腹に低いテンションで自由気ままにふるまう「タナカ」というキャラクターもまた、このズレを作るために要請されたキャラクターなのだろう。この二人のやりとりは、おそらく細かい台本が無く、アドリブ的、事故的でスリリングだし、だんだんと絵を描く事がただの作業になり、「おねいさん」と「タナカ」が無言で手を動かすようになっていっても、ただ映像として映っているだけで、何かの意味や結論に帰着させない感じがいい。また、馬の絵を描くシーンでは、映像の撮影と同時に写真の撮影を行ったようで、そのシャッター音が聴こえてきたり、「タナカ」が馬の尻尾を紙の真ん中に描きだしたところで撮影しているカメラマンのツッコミが聴こえる。こうした画面外のフィクションではない出来事が入り込んでくることで、画面内でのフィクションにならなさ=グダグダ感がより強調されていく。そうしたズレを内包、あるいはその侵入を許容しつつも、そのズレに対して悲観的になるわけでもなく、ただただ流れ込んでくるその日常のグダグダ感を受け入れて、安易な物語に落とし込まない姿勢が徹底しているのだと思う。
部屋鳴りがする。画面が暗い。共演者のテンションが低い。話が噛み合ってない。おねいさんの足がちょっと太い。ブラジャーのヒモが透けて見える。胸の谷間も見える。スタッフの声が聴こえる。スティルの撮影音が聞こえる。やらしい。描いている絵が見えづらい。うたのコーナーの始まりが唐突。うたのコーナーのフレームレートが低い。実在企業の商品が出てる。おねいさんがおねいさんであることを忘れる時がある。とにかく尺が長い。
この作品を構成する特徴的な要素。これらはすべて、テレビで放送されている子ども向けの教育番組が、夾雑物として排除してきたものでもある。「おねいさん」と「おねえさん」との間の断絶はこの夾雑物の量にある。作者はこの作品おいて、こうした要素を排除できなかったのか、排除したくなかったのかはよく分からない。ただ、ここを起点に、子ども向けの教育番組が、子どもが持つある種のノイジーさに比べていかにクリーンな存在か。そして、そのクリーンさはどこから要請されるのか。誰がつくっているのか。そうしたことを考えるきっかけにはなるだろう。
おねいさんの中の人もいずれ社会に出ることになる。そのとき、「おねいさん」からもさらに離れてしまうのか、はたまたあのクリーンな「おねえさん」に近づくのか。またどこかで再会したい。