夏に僕の町に東京ができる。 映像|2014 森田 貴之 武蔵野美術大学 作品Webサイトhttp://moritter05.tumblr.com/ 作家についてのお問合せ 審査員コメント 作者は、「東京」を「外部から人が介入」し、「大勢の人が集まる」場所として理解した結果、「夏は多くの人で賑わう」地元の武蔵嵐山の河原に「東京」を見いだす。そして、その河原にある無数の石1つ1つに「東京」という名を書き込む作業を武蔵嵐山の人口と同じ数、2万回繰り返すことで、そこに「東京」を召還しようとした。事物に名前を付ける事は、事物と出会う度にその事物が何であるかという分析や認識を行うコストを削減し、その認識を安定させる事につながる。しかし、1つ1つの「石」に「東京」と名付けることは、無意味に論理階型を踏み抜く不毛な行為でしか無い。決してこの「東京」と書き込まれた石は「東京」になることへは繋がりえないからだ。そして、「東京」を召還するために行われるその行為の回数が、なぜ「東京」の人口でなく、武蔵嵐山の人口に依拠しているのだろうか?そもそも人口の数に対応する石1つ1つは、そうも簡単に人間と併置できるものだろうか?この作品では、こうした記号的操作と現実の事物との関係が清々しい程に破綻している。いや、むしろ最初から関係を作り出そうとも思っていない屈折した不毛さがある。しかしここで感じられる不毛さは、一方で「これは〜である」というショートカットされた認識ではなく、強い抵抗をもち、否定的な「これは〜ではない」というネガティブな判断の事でもある。「〜ではない」という判断が2万回も繰り返されることは、むしろ我々が普段ショートカットして理解していた「東京」と語句の意味を宙づりで不気味なものへと変えてしまう力を持つ。河原の石1つ1つに「東京」と2万回書きこむ行為を後押しさせる、作者のモチベーションとリアリティの中に、呪術的な魅力が見える作品でもある。 谷口 暁彦 作家 名前を書いてしまえばそれがその名前の対象になるのかといえば、そんなことはないだろう。でも、この作者は、そのことを信じているフシがある。いや、信じていないかもしれないが、とにかくそうする。そうなると、この行為は願いであり呪いであると言ったほうがいい。その行為は少なくとも想念としての東京くらいは立ち上がらせるだろう。この作品を観る者として恐ろしいのは、その「東京」の誕生を、自分もまた肌で感じるようになってしまうのではないかということだ。取り憑かれるような魅力という定型的な褒め言葉があるが、この作品の場合、文字の持つ呪術のようなものが、取り憑いてくるのだ。 土居 伸彰 アニメーション研究・評論 2023 アート&ニューメディア部門 映像&アニメーション部門 ゲーム&インタラクション部門 パートナー賞 2022 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2021 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2020 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2019 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2018 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2017 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2016 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2015 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2014 受賞作品
作者は、「東京」を「外部から人が介入」し、「大勢の人が集まる」場所として理解した結果、「夏は多くの人で賑わう」地元の武蔵嵐山の河原に「東京」を見いだす。そして、その河原にある無数の石1つ1つに「東京」という名を書き込む作業を武蔵嵐山の人口と同じ数、2万回繰り返すことで、そこに「東京」を召還しようとした。事物に名前を付ける事は、事物と出会う度にその事物が何であるかという分析や認識を行うコストを削減し、その認識を安定させる事につながる。しかし、1つ1つの「石」に「東京」と名付けることは、無意味に論理階型を踏み抜く不毛な行為でしか無い。決してこの「東京」と書き込まれた石は「東京」になることへは繋がりえないからだ。そして、「東京」を召還するために行われるその行為の回数が、なぜ「東京」の人口でなく、武蔵嵐山の人口に依拠しているのだろうか?そもそも人口の数に対応する石1つ1つは、そうも簡単に人間と併置できるものだろうか?この作品では、こうした記号的操作と現実の事物との関係が清々しい程に破綻している。いや、むしろ最初から関係を作り出そうとも思っていない屈折した不毛さがある。しかしここで感じられる不毛さは、一方で「これは〜である」というショートカットされた認識ではなく、強い抵抗をもち、否定的な「これは〜ではない」というネガティブな判断の事でもある。「〜ではない」という判断が2万回も繰り返されることは、むしろ我々が普段ショートカットして理解していた「東京」と語句の意味を宙づりで不気味なものへと変えてしまう力を持つ。河原の石1つ1つに「東京」と2万回書きこむ行為を後押しさせる、作者のモチベーションとリアリティの中に、呪術的な魅力が見える作品でもある。
名前を書いてしまえばそれがその名前の対象になるのかといえば、そんなことはないだろう。でも、この作者は、そのことを信じているフシがある。いや、信じていないかもしれないが、とにかくそうする。そうなると、この行為は願いであり呪いであると言ったほうがいい。その行為は少なくとも想念としての東京くらいは立ち上がらせるだろう。この作品を観る者として恐ろしいのは、その「東京」の誕生を、自分もまた肌で感じるようになってしまうのではないかということだ。取り憑かれるような魅力という定型的な褒め言葉があるが、この作品の場合、文字の持つ呪術のようなものが、取り憑いてくるのだ。