PLAY VIDEO 山田太郎プロジェクト パフォーマンス|2014 ノガミカツキ 武蔵野美術大学 CAMPUS GENIUS PLATINUM 作品Webサイトhttp://flavors.me/katsukiz2000# 作家についてのお問合せ 審査員コメント 匿名的な意味をもつとされる人名「山田太郎」を冠したこのプロジェクトは、複数の公共空間や展覧会場に出没し、人々の顔を瞬時に転写し素材にしてしまうハンティングやハッキング的な側面と、出会った人々を巻き込むコミュニケーションやエンタテインメント的側面を見事に共存させている。iPadが変幻自在の「仮面」となり、本人を離れたほぼ実物大の「顔」がTV番組のザッピングやネットのブラウジングのように次々と差し代わり混じっていく。SNSの時代における表層として着脱可能な複数の顔やアイデンティティが、実空間に現れたかのように。街かどでこの存在は、パフォーマンスも含めた小気味良さを持ちながら、同時にえもいえない気味悪さを漂わせている。その残滓のような「不可解さ(Uncanny)」…それこそが、このプロジェクトが現代に生きる私たちに突きつけている問いなのではないか。 四方 幸子 キュレーター 1.顔は本当に不思議なものだと思う。外界を視覚イメージで認識する器官が、たまたま顔の中央付近に配置されているせいで、僕らは通常自分の顔を見る事が出来ない。水面や鏡、カメラ、ディスプレイなど、何らかのメディア、インターフェースを介さなければ自分の「顔」は見る事ができないのだ。 2.一時期、インターネットの一部で知人や有名人のtwitterアイコンを勝手にステッカーにして、クラブなどでそれを撒く遊びが流行っていた。ある時、ある有名人が勝手にステッカーを作られた事に気づいて激怒するという事件があった。twitterで何かつぶやきを投稿すれば、フォロワーのタイムラインに自分のアイコンが撒かれる=拡散されていくわけだし、さらにそれを知らないユーザーもRTで拡散したりするわけで、知らない誰かが勝手にステッカーを作って撒く行為は、twitterのRTとたいして変わらないけれど、現実の空間でやるといろいろ問題になるんだなあと思った。 3.僕のtwitterのタイムラインで、それぞれ面識のない2人のユーザーが、全く同じ豆腐の画像をアイコンにしていて、時々混乱することがある。そういえば僕も自分のアイコンをわざと友人のアイコンにして遊んだ事があった。また、最近はいろんな人が同じ有名人の名言botを作ったりするから、同じアイコン画像なのに別アカウントみたいな状況を度々見つける事がある。そういった状況のときに、画面の向こう側にどういう主体が存在するのかって事を想像すると、きっとこの「山田太郎」みたいな人物像が立ち上がるのだと思う。 谷口 暁彦 作家 アメーバピグやセカンドライフなどに代表される、アバターを介してコミュニケーションを楽しむウェブサービスから、アバターだけがこちら(リアル)側に飛び出してきたようなプロジェクト。私たちがそうしたサービスを通じて世界中の人々と寝癖や人種を気にすることなく気軽にコミュニケーションするのと同じように、山田太郎が世界中の様々な場所で人々と戯れている様子を見ると、インターネットが本来持っているはずの自由さを思い出して、素朴に懐かしく、嬉しい。インターネットにリアルを挟み込むことでインターネットを再発見するような、そういう体験である。しかし、急にこちら側に飛び出してきたせいか、こちらでの「生活」がまだぎこちない気がする。友だちからリアルの作法を学んで、これからもどんどん私たちを楽しませて欲しい。街で会ったらどうぞよろしく。 渡邉 朋也 作家 2023 アート&ニューメディア部門 映像&アニメーション部門 ゲーム&インタラクション部門 パートナー賞 2022 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2021 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2020 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2019 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2018 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2017 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2016 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2015 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2014 受賞作品
匿名的な意味をもつとされる人名「山田太郎」を冠したこのプロジェクトは、複数の公共空間や展覧会場に出没し、人々の顔を瞬時に転写し素材にしてしまうハンティングやハッキング的な側面と、出会った人々を巻き込むコミュニケーションやエンタテインメント的側面を見事に共存させている。iPadが変幻自在の「仮面」となり、本人を離れたほぼ実物大の「顔」がTV番組のザッピングやネットのブラウジングのように次々と差し代わり混じっていく。SNSの時代における表層として着脱可能な複数の顔やアイデンティティが、実空間に現れたかのように。街かどでこの存在は、パフォーマンスも含めた小気味良さを持ちながら、同時にえもいえない気味悪さを漂わせている。その残滓のような「不可解さ(Uncanny)」…それこそが、このプロジェクトが現代に生きる私たちに突きつけている問いなのではないか。
1.顔は本当に不思議なものだと思う。外界を視覚イメージで認識する器官が、たまたま顔の中央付近に配置されているせいで、僕らは通常自分の顔を見る事が出来ない。水面や鏡、カメラ、ディスプレイなど、何らかのメディア、インターフェースを介さなければ自分の「顔」は見る事ができないのだ。
2.一時期、インターネットの一部で知人や有名人のtwitterアイコンを勝手にステッカーにして、クラブなどでそれを撒く遊びが流行っていた。ある時、ある有名人が勝手にステッカーを作られた事に気づいて激怒するという事件があった。twitterで何かつぶやきを投稿すれば、フォロワーのタイムラインに自分のアイコンが撒かれる=拡散されていくわけだし、さらにそれを知らないユーザーもRTで拡散したりするわけで、知らない誰かが勝手にステッカーを作って撒く行為は、twitterのRTとたいして変わらないけれど、現実の空間でやるといろいろ問題になるんだなあと思った。
3.僕のtwitterのタイムラインで、それぞれ面識のない2人のユーザーが、全く同じ豆腐の画像をアイコンにしていて、時々混乱することがある。そういえば僕も自分のアイコンをわざと友人のアイコンにして遊んだ事があった。また、最近はいろんな人が同じ有名人の名言botを作ったりするから、同じアイコン画像なのに別アカウントみたいな状況を度々見つける事がある。そういった状況のときに、画面の向こう側にどういう主体が存在するのかって事を想像すると、きっとこの「山田太郎」みたいな人物像が立ち上がるのだと思う。
アメーバピグやセカンドライフなどに代表される、アバターを介してコミュニケーションを楽しむウェブサービスから、アバターだけがこちら(リアル)側に飛び出してきたようなプロジェクト。私たちがそうしたサービスを通じて世界中の人々と寝癖や人種を気にすることなく気軽にコミュニケーションするのと同じように、山田太郎が世界中の様々な場所で人々と戯れている様子を見ると、インターネットが本来持っているはずの自由さを思い出して、素朴に懐かしく、嬉しい。インターネットにリアルを挟み込むことでインターネットを再発見するような、そういう体験である。しかし、急にこちら側に飛び出してきたせいか、こちらでの「生活」がまだぎこちない気がする。友だちからリアルの作法を学んで、これからもどんどん私たちを楽しませて欲しい。街で会ったらどうぞよろしく。