返事をする; 繰り返す 繰り返した; 消す; 特に好き 特に好きじゃなくなった。 アニメーション|2014 大内 里絵子 北海道教育大学大学院 作家についてのお問合せ 審査員コメント 作者は、日常の生活で触れる様々なメディアの中における、暴力的な女性の性の扱われ方に着目し、この作品を制作したのだそうだ。欲望が、実際にその誇張されたフォルムに現れるという点において、アニメ的、キャラクター的表現はこのテーマの中で有用に機能するだろう。しかしこの作品では、単に反動的に暴力性やグロテスクさを誇張して見せるのではなく、それが日常の中で当たり前になり、自分の意識の内側にまでそれが浸食してしまっている状態からその問題を見つめている。この作品で現れる、ややグロテスクでアニメ的な女性キャラのシーンは、漠然としていて無味乾燥な日常のシーンと比べてはるかに魅力的になって(しまって)いる。それは暴力性やグロテスクさが、アニメーションであるがゆえにフィクションとして、ある一線を超える事を免れているという点もあるが、それらのシーンが、女性の性に対する暴力への嫌悪感と、視覚表現の魅力や快楽との間で分裂した状態で存在しているからではないか。ある瞬間を切り取って短いループで繰り返されるそれぞれのシーンは無時間的で、アニメーションのフィクション性を強く感じさせるが、そこに流れる環境音はむしろ持続と、日常からの連続を感じさせるものとなっていて、それもこの作品の分裂した眼差しを支え、維持しているのだと思う。 谷口 暁彦 作家 終始一貫して緊張と弛緩がないまぜになった独特の雰囲気が立ち込めるアニメーション作品。この雰囲気に自分はどこか懐かしさを感じる。それは多分、自分が中学生や高校生の頃(90年代後半〜00年代初頭)、インターネットに触れるようになった頃の時間や空間=身体の体験に近いからだと思う。あの頃は、まだインターネットが透明な存在ではなかったし、それに触れるという行為自体がある種の背徳を孕んだような特別な行為だったのは間違いない。だから、夜、ものすごくインターネットに集中した。そこには時間の流れは無かったし、自分の身体も無かった。 そういう体験はいまもまだインターネットと私たちの間に断片的なかたちで残されていると思う。この作品はそういう感覚を丁寧にすくい上げているのではないか。応募されてきた多くのアニメーション作品が、スクリーンの中で完結している一方で、この作品は鑑賞者側の空間や身体感覚に積極的に越境しようとする指向性がある。そこに可能性を感じる。 渡邉 朋也 作家 2023 アート&ニューメディア部門 映像&アニメーション部門 ゲーム&インタラクション部門 パートナー賞 2022 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2021 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2020 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2019 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2018 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2017 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2016 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2015 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2014 受賞作品
作者は、日常の生活で触れる様々なメディアの中における、暴力的な女性の性の扱われ方に着目し、この作品を制作したのだそうだ。欲望が、実際にその誇張されたフォルムに現れるという点において、アニメ的、キャラクター的表現はこのテーマの中で有用に機能するだろう。しかしこの作品では、単に反動的に暴力性やグロテスクさを誇張して見せるのではなく、それが日常の中で当たり前になり、自分の意識の内側にまでそれが浸食してしまっている状態からその問題を見つめている。この作品で現れる、ややグロテスクでアニメ的な女性キャラのシーンは、漠然としていて無味乾燥な日常のシーンと比べてはるかに魅力的になって(しまって)いる。それは暴力性やグロテスクさが、アニメーションであるがゆえにフィクションとして、ある一線を超える事を免れているという点もあるが、それらのシーンが、女性の性に対する暴力への嫌悪感と、視覚表現の魅力や快楽との間で分裂した状態で存在しているからではないか。ある瞬間を切り取って短いループで繰り返されるそれぞれのシーンは無時間的で、アニメーションのフィクション性を強く感じさせるが、そこに流れる環境音はむしろ持続と、日常からの連続を感じさせるものとなっていて、それもこの作品の分裂した眼差しを支え、維持しているのだと思う。
終始一貫して緊張と弛緩がないまぜになった独特の雰囲気が立ち込めるアニメーション作品。この雰囲気に自分はどこか懐かしさを感じる。それは多分、自分が中学生や高校生の頃(90年代後半〜00年代初頭)、インターネットに触れるようになった頃の時間や空間=身体の体験に近いからだと思う。あの頃は、まだインターネットが透明な存在ではなかったし、それに触れるという行為自体がある種の背徳を孕んだような特別な行為だったのは間違いない。だから、夜、ものすごくインターネットに集中した。そこには時間の流れは無かったし、自分の身体も無かった。 そういう体験はいまもまだインターネットと私たちの間に断片的なかたちで残されていると思う。この作品はそういう感覚を丁寧にすくい上げているのではないか。応募されてきた多くのアニメーション作品が、スクリーンの中で完結している一方で、この作品は鑑賞者側の空間や身体感覚に積極的に越境しようとする指向性がある。そこに可能性を感じる。