2/2は1である。一見矛盾する事実のように思えても、それは元々ひとつの存在かもしれない。私の大伯父は海軍軍人で、太平洋戦争時に戦死した。陸にあがるたび幼い兄弟たちに沢山のお土産を抱えて帰ってきたという大伯父と、志願兵として戦地に赴き 敵艦を沈めた大伯父は同じ大伯父だろうか。「集団と個」「国家と個人」「英霊と故人」「生と死」・・・大伯父という存在は矛盾し相容れることのない様々な事実を内包している。相反する2つの事実。それはどちらかが真実でどちらかが偽りなのではなく、どちらもれっきとした事実であり、その矛盾のせめぎ合いの中にこそ大伯父の存在があるように思う。戦後を生きる私たちの目の前にあるのは「光と影」でも「善と悪」でもなくただ事実のみである。矛盾する事実のせめぎ合いを切り離さずにそのまま見つめること。それだけが、骨ひとつ残らなかった大伯父に会う為の唯一の方法なのだと思う。
作者は、太平洋戦争時に戦死した大伯父について調べていく中で、ひとりの人間の中にある様々な矛盾する面に出会い、そして向き合っていく。その過程を丁寧に追っていく眼差しがとてもよいと思う。全体的にやや語り口がこってりしているのは、(もちろんそこで語られる物語が複雑で重々しい問題ではあるからでもあるのだけれども)それは本人の眼差しの強さからくるものなんじゃないかと思う。この作品はスクリーンの裏表に2つの映像を投影するかたちでインスタレーションとして展開されている。このような一望できなさや、ときにその両面が混ざり合って混沌とした様子が、大祖父の、ひとりの人間の中にあって、解消されない、ときに矛盾にみえる状態を空間の中で実現できていると思う。
私の記憶では、自分が学生CGコンテストに関わってきた5年間、応募から審査までのどこかの段階で審査員や評価員の誰かは、社会現実に目を向けた作品を…という要望を披瀝してきた。本作と、同じ作者のもうひとつの応募作《Remembrance~追憶のための往復書簡~》は、この要望に答えている点で、2015年の言及すべき応募作にちがいない。ただ気になるのは、血縁関係と個人的な体験によって触発された戦争と歴史記述に関する関心を、十分に客観化されていないまま、大きな物語として語っている「演出」の部分である。靖国神社に祀られている大伯父の足跡を辿って、沖縄から長崎県の佐世保市まで取材してきた2年の時間と努力を評価しないという意味ではない。むしろ、だからこそ、作者の「私」にもう少し開かれる余地があったのではないだろうかということだ。手がかりとなるのは、例えば、映像にしかできない表現とは何か、そして映像がインスタレーションとして空間のなかに展開されていた時に変化する知覚と認識の次元とは何かという問題ではないかと思う。もし機会があれば、小泉明郎の個展「捕われた声は静寂の夢を見る」(2015、アーツ前橋)について作者と一緒に話してみたい。