私はキャンドル作家として活動している。これまでずっと炎のゆらぎに魅了され続けてきた。炎のゆらぎには、ずっと見続けたくなる何かがある。それは炎が消えないように/大きくならないように見守ることであり、炎のゆらぎを目で追うことであり、ぼんやりと眺めることである。その眼差しはやがて自身の内側に向けられる。沸き上がるイメージの世界を、巨視と微視を行き来し、時空を超えて、重力を捨て去るほど縦横無尽に羽ばたくのである。そんな知覚まで揺さぶるほどの炎は、人々の日常を照らす道具としてだけではなく、絵画や芸能、文学や哲学など創造的な文化を醸成してきたメディアである。キャンドルの炎はやがてLEDに代用され、デジタルデバイスのディスプレイを点灯する明かりへと変化した。その過程の中で、炎のゆらぎの魅力はもしかすると失われてしまったのではないだろうか。本作品《fl/rame》はそんなひとつの問いかけである。
初恋にポケベルと公衆電話が介入していたことを自分でも忘れてしまいそうだが、携帯電話とスマートフォンが技術史的には延長線上にあるという事実を日常生活のなかで自覚する機会はそれほど多くない。終日眺めているこの機械のなかに潜在する可能性を、私たちはどこまで把握しているのだろうか。作者は、なんでもできるようになったこの機械の異なる使い方を「発明」した。この発明はある現象の「発見」に基づいているが、その仕組みには説明が必要だ。フロントカメラモード、いわゆる自撮りモードのiPhone/iPadを同じサイズの半透明のパラフィンで覆い、その上にロウを数滴落とした後、火のついたキャンドルを固定させる。カメラが感知したキャンドルの炎の揺らぎが画面に表示され、カメラに映る炎の表情を変えていくのである。この変化には、かつてのビデオアーティストたちが夢中になっていたビデオフィードバックという現象が介入している。あるビデオアートの批評家の言葉を借りると、日用品に対するフェティシズムに意識の風穴を開けた作品だと思う。個人的には、この発明に「愛」が介在しているという事実が好きだ。火を持ち歩く人がどんどん少なくなっていく現代社会のなかで消えていくロウソクの光が照らす、静寂な時間に対する愛。
ここでバシュラールを引くまでもなく炎の存在、炎がその周囲に作り出す空間の質感というのは、古来から人間の思考のモードに大きな影響が与えてきた。人工光の均質な光に埋め尽くされた現代に置いても、あの質感を求める向きというのは確実に存在していて、たとえば海外のケーブルテレビでは暖炉の映像を放送するだけの専門チャンネルがあったりするし、最近ではNetflixでも暖炉の映像が配信されていたりもする。この作品もそういう「炎の再発明」の流れに位置づけることもできると思われるのだが、使用しているスマートフォン端末の機械的特性や、それぞれの微細なネットワーク環境の差などから、端末ごとに炎のような光の揺らぎが不可避的に発生しており、その点が大きな特徴となっている。これにより、使用しているニューメディアを新しく炎と並列の「自然」へと新たに組み込み、提示しようとする野心的な視座が与えられているように感じた。