PLAY VIDEO Time Machine プロダクト|2015 寺田 鵬弘 横浜美術大学 作品Webサイトhttp://6iitomo.wix.com/tomohiro-terada 飲み物をふーふー冷ましている時、アラームを止めて二度寝する時、そういった生産性のない無駄な時間が私は好きです。私たちはいつも忙しすぎるのだと思います。何のために忙しくするかわからなくなっています。この機械たちは「もっと無駄な時間を過ごしてよいのだ。」と気づかせてくれる。そんな機械です 作家についてのお問合せ 審査員コメント 人間にしかできなかった作業を、機械やコンピュータに置き換えることは、それまで「人間」だと思っていた部分、いわば「人間性」のようなものを記述、分節化して切り離すことだ。そうしてかつて「人間」というブラックボックスに入っていた部分を操作可能なものとして外部化する。それは、ネガティブに捉えるならば、これまで信じられていた「人間性」の喪失であるし、逆にポジティブに捉えれば、そうした古い「人間性」から解放し、新しい人間に変わっていく契機ともなる。この作品では、およそ機械化される必要のない、生産性のない無駄な人の動作すらも機械として切り出している。それが何も生産しない無意味な動きであるからなのか、それぞれの機械の動きの中に生々しい人の気配を残しているように感じる。無駄、無意味さすらも機械に託すことができたとして、この機械を必要とする人間には何が残っているのだろうか?どんな人間に変わっていくのだろうか? 谷口 暁彦 作家 2015年は、time machineに関する映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー Part. 2』(1989)の描いた未来の年。もう一度この映画を見ると、Hover Board、空を飛ぶ車、無人で犬を散歩させる機械などはまだ発明されていないとはいえ、既に私たちの生活のなかにある、Skype、iPad、 wii、スマートTV 、Google Glassなどを予感した当時の想像力がおもしろい。過去の夢見た未来と現在となりつつある未来の間、変化していないのは人間(と犬)であり、その時空間認識における差異を形づけているのは、進歩するメディア・テクノロジーということだろうか。一方、この作品のタイトル「Time Machine」とは、「もっと無駄な時間を過ごしてよいのだ、と気づかせてくれる機械」という意味だそうだ。しかし、ここでいう「無駄」の意味に対して違和感を感じた。これらの機械が見せている人間の動作より、その動作を繰り返している点の方が無駄を作っているのではないか。さらにいうと、真鍮という古風の素材で精度の高い機械を制作するまでかかった作者の時間まで気になってくる。作者の言葉通り、これらの魅力的な機械が、動きや技術より、発想に重きを置いて制作したのであれば、コンセプトの部分をもう少し冷静に深められればよかったと思う。…そういえば、先月の発表によると、上記の映画に出た未来の靴、自動で紐が締まるNike Magが2016年に限定発売予定らしい。ゆっくり、そして丁寧に靴の紐を結ぶ行為を繰り返す、次の「Time Machine」が生まれるかもしれない。 馬 定延(マ・ジョンヨン) メディアアート研究・批評 2023 アート&ニューメディア部門 映像&アニメーション部門 ゲーム&インタラクション部門 パートナー賞 2022 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2021 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ表彰 2020 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2019 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2018 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2017 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2016 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2015 アート部門 エンターテインメント部門 パートナー賞・ナレッジ賞 2014 受賞作品
人間にしかできなかった作業を、機械やコンピュータに置き換えることは、それまで「人間」だと思っていた部分、いわば「人間性」のようなものを記述、分節化して切り離すことだ。そうしてかつて「人間」というブラックボックスに入っていた部分を操作可能なものとして外部化する。それは、ネガティブに捉えるならば、これまで信じられていた「人間性」の喪失であるし、逆にポジティブに捉えれば、そうした古い「人間性」から解放し、新しい人間に変わっていく契機ともなる。この作品では、およそ機械化される必要のない、生産性のない無駄な人の動作すらも機械として切り出している。それが何も生産しない無意味な動きであるからなのか、それぞれの機械の動きの中に生々しい人の気配を残しているように感じる。無駄、無意味さすらも機械に託すことができたとして、この機械を必要とする人間には何が残っているのだろうか?どんな人間に変わっていくのだろうか?
2015年は、time machineに関する映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー Part. 2』(1989)の描いた未来の年。もう一度この映画を見ると、Hover Board、空を飛ぶ車、無人で犬を散歩させる機械などはまだ発明されていないとはいえ、既に私たちの生活のなかにある、Skype、iPad、 wii、スマートTV 、Google Glassなどを予感した当時の想像力がおもしろい。過去の夢見た未来と現在となりつつある未来の間、変化していないのは人間(と犬)であり、その時空間認識における差異を形づけているのは、進歩するメディア・テクノロジーということだろうか。一方、この作品のタイトル「Time Machine」とは、「もっと無駄な時間を過ごしてよいのだ、と気づかせてくれる機械」という意味だそうだ。しかし、ここでいう「無駄」の意味に対して違和感を感じた。これらの機械が見せている人間の動作より、その動作を繰り返している点の方が無駄を作っているのではないか。さらにいうと、真鍮という古風の素材で精度の高い機械を制作するまでかかった作者の時間まで気になってくる。作者の言葉通り、これらの魅力的な機械が、動きや技術より、発想に重きを置いて制作したのであれば、コンセプトの部分をもう少し冷静に深められればよかったと思う。…そういえば、先月の発表によると、上記の映画に出た未来の靴、自動で紐が締まるNike Magが2016年に限定発売予定らしい。ゆっくり、そして丁寧に靴の紐を結ぶ行為を繰り返す、次の「Time Machine」が生まれるかもしれない。