世界中のセレブ、日本でも女性達は声高らかにフェミニズムを掲げます。「女性にもっと権力を!」とか「なんで女性ばっかりが!」とか。私にはフェミニズムの考え方があんまり入ってきません。自分が女性としての権力を持っていないとか不平不満を感じた経験が無いからかもしれません。男と女は身体の作りもサイクルも違うから差があるのは当然だと思っているのかもしれません。でもインターネット上では男女も糞もなくて男も女になれるし女も男になれます。インターネットと日常は違うフィールドになり得るし、誰にでもなれる自由な場所だと思っていました。でも、chatroulette!では、やはり私はファックされてしまうし、所詮私は女なんだな、と落胆することもなく淡々と思っただけでした。
インターネットの闇を現在形で記録した衝撃的なパフォーマンス映像。性的快楽という目的を共有するコミュニティのなかでは、ひたすらテクストを読み続ける作者に強制退場の処分が降ろされる。彼女の経験を通して接した異世界の暴力性に圧倒されてしまったのは、私自身が生物学的に女性であるという理由だけでほぼ無条件的に作者に感情移入してしまったからであろう。その意味では「所詮私は女なんだな」という、作者がコンセプトに書いたジェンダーの自覚の部分は理解できなくない。しかし、この映像を「作品」として応募したという事実については、別の次元で冷静に考える必要がある。いくら歪であるとはいえ、あるコミュニティに侵入し、その秩序を乱した後、それを「作品」という名の下で外部世界に露出させる行為もまた一つの暴力であるのではないだろうか。審査会で自分が喋り続けなければならないという異様な義務感に駆られていたのは、この映像に対する他の評価員の発言が、彼らが男性であるという理由だけで、異なる意味を帯びてしまうかもしれないという構造的な暴力を恐れていたからだった。しかもこのコンテストは、全ての審査過程をインターネットで中継し、アーカイブとして保存、公開することを特徴とする、学生CGコンテストではないか。作者が自分自身の振るう暴力にどれだけ自覚的なのか、提出された映像とコンセプトだけでは定かではないことが残念すぎる。この不都合な事実に向き合って、作品とは何か、作品を発表する場を提供することの社会的な意味とは何かを、一緒に考え直したいというのが、ノミネート審査会で手を挙げた理由である。
インターネットは原理的には世界中の誰に対しても発信することができる。しかし、世界中の人々が発信したものを受信してくれるわけではない。それはそこに参加している人の興味のベクトルが多様だからだ。それでも、人がSNSのようなオープンなプラットフォームで何かを発信してしまうのは、いつか誰かが読んでくれるかもしれないという「投瓶通信」のようなものへの仄かな期待なのだと思う。この作品を、映像として、あるいはパフォーマンスとして見た時に、起承転結のような構成も、カタルシスも認められないが、そうしたインターネットをとりまく状況の縮図を描いたものなのだとしたら納得できる部分もある。