たとえばそれは、ごく単純にある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる、太陽の燦然たる輝きにほかならないこともある
インスタレーション|2015
震災の翌年にそれまで育ってきた家を失った。郊外にある新興住宅地の家だった。福島には原発事故以来、今も家に帰れない人たちがいる。岩手や宮城では津波で多くの家と家族がなくなった。4年たった今、東京ではオリンピックや経済成長云々。いつの間にか、震災以前の「日常」に戻ってしまった。大量の電力、大量の新築物件、35年ローンのための労働、労働のための人生。そろそろ豊かさや幸福について考え直してみていいのではないか。どうしたらわたしたちの自由な欲望を肯定しつつ、外部からの収奪に成り立つ「豊かさ」でない、処分しきれない大量の廃棄をださない消費へ変換できるのか。今までとは違う豊かさや幸福を、この二畳の場所に座ってみえる世界を感じてほしい。
このたった2畳の小屋は、そのほとんどの材料を廃材からまかない、解体後も再利用できるようNPO団体に寄付したという。小屋の内部に敷かれた畳も近所の畳店から仕入れ、その生産方法の変化の中に大量生産と経済のグローバル化の影響を見て取る。また、小屋内部を照らす電球は太陽電池で自家発電したもので点灯させ、空間放射線量が0.09μSv/hを越えると電球は消える仕組みになっている。ドーム部分に用いられた竹も、学校の付近に生育する竹からできていて、竹が近年サステナブルな素材とし見直される点も触れられている。福島の震災・原発事故以降、それまで当たり前 だと思われていた様々なもの、例えばそれは電力や大量生産・消費といった経済活動などが見直されるようになった。そうした背景からこの作品は製作され、材料の来歴や構造など細部にわたって良く調べられ、コンセプトがまとめられている。たしかに、この作品はこれまで求められていた豊かさや、それを下支えしてきた消費活動から離れ、福島以後のリアリティ(時間の経過によって、また福島以前に戻りつつあるのかもしれない。以前の、普通の生活に戻ることが復興ではあるのだけれども、当然全てがリセットされるようには戻れない。)を体現することに成功していて、とても良く出来た作品だと思う。ただ、同時によぎる不安として、この作品で示されているものが、福島以後の最新の消費者像なのかもしれないとも思えてきてしまう。つまり電力や消費に対して意識的で、さまざまな材料の来歴に敏感で、これまでの消費社会から一歩引いた場所に身を置く新しい消費者。個人にカスタマイズされた消費活動をカバーする方法のひとつとしての地産地消。そうして資本主義をより持続可能で、アップデートする、新しい消費者像のひとつとして。そう見ると、この作品の素材についてのコンセプトひとつひとつが商品の付加価値の説明として見えて来る。
廃材を集めて畳2畳の家を建て、自作の太陽光発電装置で明かりをつけ、そのなかで時間を過ごし、解体後の材料は寄付して社会に還元する。Tumblerの写真や制作プロセスから伝わってくるのは、何を、如何にという情報よりは、何故の部分である。本作が卒業制作であることから推測すると、作者が震災で家を失った経験をしたのは、大学に入学する年の春だったかもしれない。自分の手を動かしながら実世界に介入することで、一人の力では解決しようもない大きな社会的な問題について考察した、世界に向き合って生きていくための真剣な修行のような作品である。