いくつかの装置がモノを、たたいたり、すったり、ゆらしたりして音を鳴らしている。気持ちの良い響の音もあれば、そっけない音もある。中にはほとんど音が鳴っていないものもある。しかしそれは”無音”ということではない。単に小さな音が他の大きな音にマスキングされ聴こえないのである。人の耳には聴こえないというだけで、それも一つの鳴っている音である。そんな人の聴覚的特性によって「聴く」ことのできない音。また「聞かれて」いるけど「聴かれて」いない、人の「聴く」行為によって分節化されていない状態の音。一方は人には聴こえない音、もう一方は意識を向ければ分節化され消えてしまう音、どちらも人の耳や意識的な聴取では確かめられない、虚構のようなものである。そういった、なんでもなく在る音の地平に対して耳を傾け愛でるわけでもなく、人の聴取とは関係なく、ただ音を投げかけ続けることで音の地平と関わろうとするための装置。
奇妙な形の装置たち。それらはデザインされているように見える。つまり、ある機能や目的のために、必然性と、意図をもってそうした形でデザインされ、そこに存在しているようだ。しかし、その目的は不明瞭だ。それぞれの装置からは、風変わりな動作による物音が時々聞こえてくる。それは何か特別で変わった音でもなく、奇妙なその装置の見た目にしてはいささか地味で小さな音だ。だから、決してこれらの装置はこの音を発音するためにデザインされているのではないのだろう。もっと別の目的のために動作し、結果として音だけが聞こえてくるのだろう。音はこの装置の目的を推測するヒントにはなるように見えるが、目的そのものにはならない。そして目的は見えず、曖昧なままだ。もし目的を見失ったまま空虚にデザインされ続けるプロダクトデザインというものがありうるならば、このようなものなのかもしれない。
記録映像から徹底的に人間の存在が排除されているせいか、ずっと見ていると、ここに登場する幾何学的な形状をした装置たちが生命体のように見え、ひいては展覧会場全体が水槽のような、生態系を可視化する機能を併せ持ったビオトープのようにも見えてくる。またさらに、装置の形状が抽象的かつソリッドであるため、どこか地球外生命体や未来の生命体のようなSF的な匂いも感じる。これらはそれぞれ独立した系を持っているようで、その固有の形状と固有の動きを持っている。一見すると互いに関係を持たずに孤立しているように思えるのだが、極稀にそれぞれから放たれる音が始原的なリズムやメロディのパターンを紡ぎ出し、相互的な関係を織りなす瞬間があるように感じる。自分はたまたま俯瞰する視点を与えられたので気づくことができたが、そうした関係をそれぞれの装置は自覚しているのだろうか。その点を興味深く思った。