サイトを開くと、ブラウザの履歴上に高村光太郎の「道程」の詩が現れる。その詩は自分がサイトを開くまで存在せず、開いたことによる自分の軌跡が詩となるのである。ブラウザの履歴というものは、使用者それぞれのどんなページを閲覧していたか、どんなことをしていたかの痕跡であり、新しいものからどんどん積み重ねられていき、現在の使用者へと繋がっている。この要素が、轍のように思え、高村光太郎の道程の詩の、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」という部分と重なっていると考え、ブラウザの履歴をただ履歴として使っている人に、別の見方を気づかせられるのではと考えた。
僕がインターネットを始めたばかりの、webページのハイパーリンクをまだ新鮮なものとして体験できていたころ、リンクを辿って様々なページに飛ぶことは、家に居ながら世界中を旅するような感覚だった。その当時、インターネットに託されていた未来的なイメージがそうした感覚を助長していたのかもしれない。あるいは、もっと単純に回線速度が遅く、次のページが表示されるまでの待ち時間が長かった事が、ページとページの隙間のような距離を生み出していたのかもしれない。実際に海外のwebページはサーバーが海外にあるから、国内のwebページよりも表示されるまでの時間が長かった記憶がある。今はそうした感覚は薄れていて、webページに隙間(実際にそれは物理的距離でもあった)があることなんて誰も意識していない。この作品は、そんな忘れられてしまったインターネットの中の隙間について思い起こさせる。思い起こさせるけれど、光や電子が、海底の光ファイバーや道端の電話線を行き来することは、こうした隙間の感じとは全然関係ないし、ましては高村光太郎の道程とも全然関係ないだろう。だから良いのだと思う。