手のなる方へ

手のなる方へ

アニメーション|2016

薄羽 涼彌

東京藝術大学大学院

審査員コメント

  • 「CGの意味がCampus Geniusになった後にも、Computer GraphicsとしてのCGの新しい才能を発掘していくことは、このコンテストの変わらない社会的役割だと思います。…作者はCGアニメーションを個人で作れるという状況にワクワクしていると言いましたが_、私は作者の才能にめがでてふくらんでいくことが楽しみでワクワクしています。」2年前に私はこの作者の《めがでてふくらんで》という作品についてこのように書いた。今読み直すと、若干傲慢な発言に読まれるのが気になるけど、学生CGコンテストに関わる私の気持ちは、その時と変わらず、才能の目撃者のそれに近い。作者が1年の沈黙の後に見せてくれたこの作品を見て、私はもう一度ワクワクした。「絶滅の瀬戸際まで追い詰められた生物種が、かろうじて危機をやり過ごし、未来への生存の可能性を残す、そういうプロセスを表現した」と述べた後、「以上が作者としての意図ではありますが、抽象的なアニメーションなので、観客それぞれの解釈にも興味があります」と作者はいう。確かにこの作品から伝わって来る、世界の不条理とその残酷さ、絶望と希望の交差、何かを守ろうとする意思などは、生存、人生、夢、仕事、人間関係から自然災害まで、あまりにもいろいろな意味で解釈することができる。がしかし、この普遍性こそが、逆説的にこの作品の唯一の弱点となっているかもしれない。卑近な例を挙げると、全てのキャラクターは作品制作に注がれた労働、努力、時間であり、そして、死んでしまったキャラクターたちの「手」が想像もつかない方法で守り抜いた「光」は完成されたこの作品自体だというふうに、自己言及的な作品として読み取ることも可能なわけだ。ただ、この場合には、最後のシーンの抽象度をもっと高めて、それこそ観客の想像に任せればどうだっただろうと思ってしまう。とはいえ、ここで強調しておかなければならないのは、「背景」の特殊効果として使われることが多い物理演算を、「前景」となるキャラクターの動きに適用させることで、作者の手の届かない偶然の要素を取り入れている、作者の意識である。ここで残るのはある普遍的な問題だ。作者の意図を超えている、この理不尽なCGの世界に対して、なぜ見る人は「感情移入」して、動くオブジェクトからある「意思」を見出してしまうのだろうか。だとすると、最初、この作品がカール・シムズの《Evolved Virtual Creatures》(1994)を連想させたのも偶然ではなかったということになる。さらにいうと、時間は前後するが、2016年度末に炎上した、NHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」と関係付けて、もう一度この作品を見ることもできるということになる。

    馬 定延(マ・ジョンヨン) メディアアート研究・批評