隣り合う人の顔も知らぬまま
インスタレーション|2020
本作は、高度経済成長期に住宅難解消の目的で開発された多摩ニュータウンで、ゴルフをする作品だ。私は製作したゴルフマシンを多摩ニュータウンへ持ち出し、ボールを打ちながら様々な場所を巡り歩いた。ここは私の故郷でもある。 多摩ニュータウンには、6つの大きなゴルフ場が隣接して存在する。政治やブルジョワジーの象徴として描かれるゴルフは、ニュータウンの”均質的な日常”からは遠くかけ離れた存在だが、お互いは歪に共生するように、隣り合っている。遠くはなれたどこかの誰かは今日も、この整えられた美しいユートピアに、ゴルフをしにやってくる。記録映像、実際の装置、ニュータウンの地図で展示は構成される。地図には黄色いテープで、多摩ニュータウンの形状をマーキングしている。地図上に置かれたティーは、撮影地の目印である。これは、歪な共生関係を淡々と描く試み。
集合住宅では隣人の顔すらよく知らないということがあるように、自身が居住する宅地に隣接され、よく知らないブルジョワジーに嗜まれている、よく知らない、しかし存在感のあるお隣さんとしてのゴルフ。そのよく知らない対象に対して、慎重に歩み寄り、隣人を理解していこうという営みが非常にシュールに、そして丁寧に描かれている。ともするとバカバカしく、壮大且つ無意味なアナロジーが表現として秀逸である。一見、装置によるガジェット作品のようで、フィールドワークによる地域アートのようでもあり、演劇的にも見え、最終的にはインスタレーションに落とし込まれており、多様な見え(せ)方が、独自の作品フォームとして結実しているように見える。
ニュータウンが現代の縮図であるという言説はその拡張期である90年代半ばより広がっていったが、ここを原風景とするニューファミリー生まれの作家たちによる注目すべき都市論と言える作品が近年多数生まれている。ヒラヤマは、ニュータウンに共存するゴルフ場の存在に注目し、ボールを飛ばすマシーンを製作して、もうひとつの空間でそれを飛ばす。これは、他者のモデュールでその土地を観測する試みであり、両者の空間的特性の差異を鋭く示すものだ。同時に、日常と非日常が混在するニュータウンの特異な風景を淡々と映し出し、その鮮やかな手つきに感嘆せざるを得ない。