「☆¿※◉♯」が私を擬物化すると

「☆¿※◉♯」が私を擬物化すると

メディアインスタレーション|2023

古山 寧々

多摩美術大学

私が「パソコン」と関わるとき、私は指でキーボードに触れる。 このとき「パソコン」からは、私という人間はどのようにみえているのだろうか。 「パソコン」にとって、私は指だけの存在にしかみえないのではないか?あるいはディスプレイを見る目だけの存在、スピーカの音を聞く耳だけの存在なのではないか? 「パソコン」だけではない。「椅子」からは、私はどのようにみえているのか? 「ベッド」からは?「インターホン」からは?「アイスクリーム」からは? それぞれのモノには、それぞれの知覚があり、それぞれの世界があると考えてみる。 人間は、人間以外のものを人になぞらえて理解したり、表現したりする。このことを「擬人化」という。 だとすれば、人間以外のモノが人間を理解する際には、モノは人間をモノになぞらえているかもしれない。 そうした、モノが人間をモノになぞらえることを、「擬人化」ならぬ「擬物化」と呼んでみる。 「擬物化」された私はきっと、人間とはまるで異なる姿や動きをする、ヘンテコな存在にみえているにちがいない。 モノによって擬物化された「私」が、どんなものになっているのかを想像することができれば、人間と非人間の立ち位置を入れ替えられるかも知れない。 Photo: KIOKU Keizo Photo Courtesy: NTT InterCommunication Center [ICC] ICC Kids Program 2023: Hi, Nice to Meet Me!

審査員コメント

  • コンピュータ科学者のダン・オサリヴァンとトム・アイゴは、コンピュータから見た人間を示す図として、単眼から指が生え、2つの耳をもったホムンクルスを描いています。そこで示されているのは、メディア化された社会を生きる私たちが、限られた感覚器官だけを通して世界と接する、縮減された存在であるということです。この作品では、様々な日用品や食品などから見た人間が、モーターやモニターなどの組み合わせによって表現されています。モノから見た私たちの振る舞いは、ときにあまりに原始的であったりナンセンスだったりして、思わず笑ってしまいますが、同時に気付かされるのは、私たちは常に複雑な思考に基づいて行為しているわけではなく、ときに液体を通すただの管や物体をすり潰す突起物のような存在としてしか世界と接していないことがありうる、ということです。

    永田 康祐 アーティスト